レスポール落下事故とその後

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年末に愛機レスポールを床に落としてしまった。

弾き終わり、高く持ち上げてストラップを首の上から外しスタンドに戻そうとした時、ストラップを持っていた右手が滑り、ネックを握っていた左手も滑り、胸の高さからボディエンド側が床を打ちそのまま横に倒れた。

一瞬何が起きたか分からなかった。

そして、よく見かけるレスポールのヘッド折れやネック折れの画像が頭をよぎった。

悪い予感はしていた。仕事からくる疲労で右腕は限界だったし、左手も思うように動いてなかった。

抱き起こしてみるとヘッドもネックも無事だった。ジャック・プレートの凹みとボディのバインディングの小傷以外、目立った損傷はなかった。

大事には至らなかったが、ギターを落とした経験がそれまでなく、大切なギターを落としてしまった衝撃から暫く抜けられなかった。

 

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ケーブルを挿した状態で落としたのでこんな状態に。ジャック・プレートが完全に陥没。


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プレートの歪みが落下の衝撃の強さを物語っている。ブラス等の硬い素材だったら木部まで損傷していただろう。


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 ということで、ヒストリック純正の交換パーツを購入。


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何事もなかったように元通り。

今日も元気に唸っています。

 

Gibson Custom Shop Historic Collection 1958 Les Paul Standard 2007

 

ひと月にふたつも自分用のマグカップを買ってしまう。

あるいは『クリスマス・プレゼントの選び方』
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今年が終わってしまう前にブログを更新しておこうと思い立ったが、1年を振り返るようなことは苦手だし、今月のことを少し。

 

クリスマス・プレゼントは、その年にお世話になった人に感謝の意を表すためのものだというのが自分の考えだ。

普段は村のようなところで生活しているが、プレゼント選びのために二度ほど街へ出た。プレゼント選びは難航し、何故か二度とも自分用のマグカップだけを買って帰るという失態。

おかげでうちでの一人コーヒータイムがとても充実している。今までは味気ないステンレスの保温マグで済ませていたのだが、お気に入りのカップがあると気分が3割ほど増し飲み干す早さが通常の3倍シャア専用ザク状態なのである。早く飲み終わるのにこの充足感。

 

別々の店で一目惚れした二つのマグカップ、よく見たら同じメーカーの物だった。

 

洗っても破れない紙と濡れていても書けるペン

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一体何冊メモ帳を持っているのか自分で把握し切れない程だが、また買ってしまった。

・TAGGED MEMO PAD

クリーニング・タグに使われている耐洗紙製で、汗や水に強く、洗濯しても破れないそうだ。

そんな条件を選ばないメモ帳に合わせてボールペンも買ってしまった。

・パワータンク スマートシリーズ

インクが加圧されていて、圧縮空気によって押し出されるので、上向きでも書けるし、濡れた紙にも書けるし、氷点下でも書けるそうだ。

これで雨の日でも安心してメモが取れる。(そんな場面あるのか?)

因みに仕事柄氷点下で記入することはたまにある。 

水に強い紙と濡れていても書けるペン、最強の組み合わせ。

 

Raw Vintage Tremolo Springs

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PRS SE Custom 24のトレモロ・スプリングをRaw Vintage Tremolo Springsに交換。

劇的に音が変わるという評判のスプリング。


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張力は低く、5本掛けてもストックのスプリング4本分よりかなり弱め。

ネジを締める必要がある。

これだけ違えば音が変わるのは当たり前だ。

 

スプリングが緩い分、残響がやや丸く長くなった。

低音弦の切れがよくなった。

アーミングがしやすくなった分、フラッターは少しかかりが悪くなった気がする。

感じた違いはそんなところ。

確かに音は変わる。

ストラトの方が違いがはっきり出るかもしれない。

 

Raw Vintage - RVTS-1 Tremolo Springs

 

12年間変わらない自分の現在地

あるいは『アジカンが立ち続けている場所と新録ソルファ』


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12年前の自分の誕生日に発売されたASIAN KUNG-FU GENERATIONのアルバム『ソルファ』。ポップさと実験性を二項対立ではなく難なく両立させたアジカンの魅力は『ソルファ』の前に発売されたシングル『サイレン』で既に完成されていたように思う。その辺りのことは阿部真大が『世界はロックでできている』で評しているので、ここで俺が改めて言うことは何もない。

12年経っても、俺の現在地は少しも変わってない。端っこに留まったまま、中心へは1ミリも近づいていない。六弦の三フレットを刻み続けていたものの、たった一人の君へすら届いちゃいない。←「振動覚」風。

当たり前だが。常に最前線に立ち続けているアジカン とはえらい違いだ。実験性を保ち続け、それでいてポップさを兼ね備え共感を生むアジカンの勢いは、一向に衰える気配がない。

何故そのアジカンが12年前の作品をまるごと録り直すことにしたのか。

俺は新録『ソルファ』に何を期待していたのか。

『ソルファ』を聴いていると自分の焦りや忸怩たる思いを再確認できる。才能もなく何者にもなれない自分を励ますように響き突き落とす。12年経ってもそれは変わらない。ちくちくと心のどこかを刺激する。痛い。しかしその痛みは一人で抱えているものじゃないよと教えてくれる。

 

ふと思い出したので、ここで少し昔の話をする。大槻ケンヂについてだ。

「猫のリンナ」の中で、猫の背に爆弾を括り付けて世界を燃やしにいこうと言っていた大槻ケンヂ。だがその5年後に改編を行い、猫の背におむすびを括り付けて梨もぎにいこうという内容になった。

当時の俺にはこの心変わりが理解できなかった。世界を燃やしたいという大槻ケンヂに共感していたのに裏切られた気分だった。筋肉少女帯はその後もずっと聴き続けていたが。

おむすびと爆弾、今の自分だったらどちらを選ぶだろうかと考えてみる。

世界を燃やしたい気持ちが少し勝っている。

 

さて、今現在のアジカンによって最新版にアップデートされた新録『ソルファ』。細かい違いはたくさんあるが、受ける印象は変わらない。最前線に立ち続けているからこそアジカンは変わっていない。

優れたロック・ミュージシャンは吟遊詩人であり伝道師でなければいけない。同時代性を表現しつつも若い頃の焦りを忘れず、報われない者たちの代弁者で居続けなければならない。俺にとってアジカンはそういう存在だ。

 

 

ASIAN KUNG-FU GENERATION - ソルファ

阿部真大 - 世界はロックでできている

大槻ケンヂ - 猫のリンナ

 

 

 

ゴリラの日常

あるいは『仕事がある日の平凡な一日。』


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夜明け前に起きる。
部屋から見える朝焼けがきれいだったら写真に撮る。
雲の動きが面白そうな時はタイムラプス動画を撮ることもある。
写真を見せたい人が居るような居ないような、起こしてしまったら申し訳ないなと思い留まる。
代わりにインスタグラムに上げる。
タグを付けなければ誰の目に留まることもなく埋もれてしまう。
俺の写真なんてそんなもん。
俺の音楽も、俺の人生も、きっとそんなもん。

 

右上腕部が痛むので朝練はサボることにする。

 

通勤中は音楽を聴く。
時代遅れのiPod classic
カナル型は外音が遮蔽されて危ないのでインナーイヤー型のイヤフォン。
通り過ぎて行く風景で季節の移り変わりを感じる。
この前見つけた季節外れのタンポポが綿毛になっている。
夏は道端でクワガタを何回か見かける程度の田舎。
通勤中でもこれはと思ったら写真を撮る。
誰にも見せないことが多い。

 

職場に着く。
肉体労働と頭脳労働がちょうど半々くらいの仕事。
今の仕事に対する思い入れはひとかけらもない。
生きていくには稼がないといけない、ただそれだけだ。
やり甲斐だの生き甲斐だの向上心だのという話をされても、俺はそんなに立派な人間じゃない。
それでも仕事と責任は増える一方で、職場のストレスチェックに引っ掛かり人事課に呼び出しを食らう。
上司にも報告が入る。雑用は下に振って’負担を減らせと言われる。
そんなこと言われても、全体を見渡せる人にしか細々とした仕事は見えて来ないのだぜ。
ちょっとしたことで注意されることが続き、上司に話し掛けられると言葉に詰まり咄嗟に返事ができなくなる。
吃音症がすぐそこまで戻って来ている。

 

帰宅後、すぐにごはんを食べる。自炊率は半々、昼ごはんは弁当を持参している程度。

 

テレビは観ない。
ヨーロッパのサッカー中継が地上波から駆逐されてから、かれこれ10年以上は実家以外でテレビを観ていない。
ラジオはよく聴く。ポッドキャストも。
JUNKを全曜日聴いていたこともあったが、朝が早いので体が保たなかった。
ラジコがタイムフリーを始めたので時間を気にせず聴けるようになったのはうれしいが、深夜放送のあの独特の雰囲気は生で聴かないと味わえない気がする。

 

ギターを弾く。
手元の弦の振動がアンプを通して増幅されているのを聴くと心に力が漲る。
仕事をした日は右腕が突っ張ったような感じで上手く動かない。
ゆっくりウォームアップしても速いピッキングまで持って行けない。
演奏技術が上がっているのかよく分からない。
ギターを弾いていたらいつの間にか寝なければいけない時間になっている。
明日の弁当を作る余裕がなくなっている。
冷蔵庫の食材の行く末を心配しながらシャワーを浴びる。

 

眠りにつくまで音楽を聴いたり本を読んだり。
今日はキース・ジャレットによるバルトークのピアノ協奏曲第3番。
昨夜松本昭彦のピアノ前奏曲集を聴いていたら何故かバルトークを聴きたくなったのだが、関連性はない。
読むのは小説が多い。

 

うつらうつらしながら頭に浮かぶのは大体いつも同じこと。
何のために生きているのだろう。
誰のために生きているのだろう。
自分には何かできるのだろうか。
自分が居なくなっても誰も困らないだろうな。
作りかけの曲が色々あるな。
読みかけの本はたっぷり積んであるな。
だから明日も明後日も、きっと生きている。

 

初めて買ったエフェクターは使わなくなっても捨てられない。

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初めて手に入れたエフェクター、BOSS OD-1 オーバードライブ。

これにしようと決めていた訳ではなくて、成り行きでこれになった。

当時既に生産完了していてプレミア価格で取り引きされていたのだが、諸事情で離島の片田舎に住んでいたので地元の楽器屋ではまだ普通に定価で売られていた。そもそもそんな情報すら届いてなくて、その事を知ったのはだいぶ経ってからだ。

後継機であるSD-1とどちらにしようか悩んでいたら楽器屋のおっちゃんに

「ギターにトーン付いてんだべ?だったらこっちのトーンない方でいいっぺ」

とOD-1を推められた。

当時の自分は何故かその意見に深く同意し、OD-1を連れて帰ったのだった。

このOD-1、学生時代に大いに活躍した。アンプはいつも現場にある物しか使えなかったので、これでアンプの音を自分好みに調整していた。

マルチエフェクターを使っていた時も、足元の1個がマーシャルのガバナーに取って替わってからも、OD-1はいつもギターのハード・ケースに入れて持ち歩いていた。お守りのように。

今は全く使っていないのだが、思い出が詰まっていてなかなか手放す決心がつかない。

 

BOSS OD-1 Over Drive