読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

菊地成孔について その1

日々忘却していく一方なので、自分にとって重要なことは残しておくことにする。
少しずつここに書いて。

さて、菊地成孔について、だ。
俺が菊地成孔の生徒だった頃の話。もう十年ほど前の事になる。

当時俺は菊地成孔を「菊地先生」と呼んでいた。
下らない俺の人生の中で、
俺にとって本当の意味で「先生」というのは彼一人しかいないので、
俺が「先生」と言うときは全て菊地成孔のことだ。昔も今も。

「師匠」ではなく「先生」なのには理由がある。
当時、菊地成孔はサックスと音楽理論の私塾を運営していた。
ペンギン音楽大学の前身となっていたそれは、「菊地スクール」という通称で呼ばれていた。
俺はその菊地スクールの生徒だった。
自らの意思で誰か特定の人の生徒となったのは後にも先にもこの時だけで、
だから俺にとっての先生は菊地成孔だけなのである。
レッスン毎の授業料によって発生する先生と生徒という関係。
今となっては信じられないことだが、当時は全てのレッスンが先生と一対一で行われていた。
ティポグラフィカグラウンド・ゼロは解散していたが、
自身のバンド、デートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデンを旗揚げし、
東京ザヴィヌルバッハ(信じられないことに新宿ピットインで客四〜五人ということがあった)の活動が本格化、
岩澤瞳との第二期スパンク・ハッピーを準備していた時期、
ジャズ・テナーサックス奏者としては、
早坂紗知のサックス・カルテットから脱退し、加納美佐子のグループから離れ、
大友良英ニュー・ジャズ・クインテットのヨーロッパ・ツアーが成功し、
自身の菊地成孔カルテット(後にクインテットとなる。余談になるが、このアコースティック・クインテットが好きで、個人的に「菊地成孔ロスト・クインテット」と呼んでいる。)を始動した頃だ。
さらに、膨大なスタジオ・ワークを日々こなしていた筈だ。
レッスンは東急東横線都立大学駅近くのリンキィディンクというスタジオで行われていた。

最初のレッスンの日、都立大学駅に着き先生のケータイにかけると、何やら作業中のようだった。
おそらく第二期スパンク・ハッピーのトラックを作っていたと思われる。

 

初出:FC2『思考の頭陀袋』2010.11.15