どうせなら風の強い夜明け前がいい

再びツイッターから逃げてきた。

アルバムのサブスク配信の宣伝のために1日1曲ずつ解説をツイートしてきたのだが、あと6日も堪えられそうになく残りの6曲分をいっぺんに書いてツイッターを閉じた。

コラボした曲の宣伝のために戻ったままサブスク配信のタイミングになりそのまま居続けてしまった。

ツイッターのタイムラインを追っていると惨めな気持ちになるのは何故なのだろうか。すてきな曲を作っている人、演奏技術を磨いている人、創作をする上でいい刺激になっていると思っているものの、どこかで自分の至らなさを痛感していたたまれなくなるのだろうか。そんなものツイッターを覗くまでもなく感じているのだが。

自分の曲への「いいね」や感想がどれだけ創作活動の精神的な後押しになっているか分かっている。だからみんなの曲にも積極的に感想を伝えようと決めたはずなのに、上手く踏み込めない。他の人が既に感想を言っていたりリプが盛り上がっていたりすると自分が何か言うと水を差すだけなのではないかと「いいね」すら引っ込めてしまう。みんな表面的には仲良くしてくれているけど、流れで仕方なくそうしてるいるだけで本当はどうでもいいと思っているのではないだろうか。誰の心にも響かない音楽を鳴らし続けて何になるのだろうか。ずぶずぶと闇の中に沈み込む。叫べない替わりにギターを掻き鳴らすのは音楽に対する姿勢として間違っているのではないかとさらに沈む。

こうして思考の流れを文章化してみると、ただ自分が弱っているだけなのだと気づく。

もっと向いていることが他にあったのかも知れないなと、ギターと創作に明け暮れるほど荒れていく部屋の中を見渡して思う。上手くならないギター、進まない理論の勉強、一向に整わない制作環境。家庭を持つことと引き換えに手に入れたはずのそれとしては余りにも情けない。十字路で悪魔と契約を交わすには魂の重さが足りなかった。

音楽を始める遥か前、まわりから「耳がいい」と言われることが多かった。ひそひそ話していることが聞き取れたりエンジン音でどこのうちの車が通ったか分かったりとかその程度のことだったと思う。今となってはコードのテンションも上手く聴き取れないし、何よりも聞こえるのは誰にも聞こえない耳鳴りだけだ。これだけは一日中ちゃんと聞こえている。

今日、仕事で自分が取り仕切っている部署の業績がよくて表彰された。少しのうれしさも湧いてこなかった。少しもだ。それより自作に「いいね」をひとつもらう方がよっぽどうれしい。だから自分も何か感じた作品には「いいね」を振り撒かないとと思いつつ、もうツイッターを開きたくない。