椙本姉妹のこと

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 高校生の頃、椙本姉妹と仲が良かった。
 椙本家は実家から歩いて10分掛からないくらいのところにあったが、知り合うまでは「椙本」の読み方さえ分からなかった。
 俺は椙本しおり(姉)を「スギモト」と呼び、椙本かおり(妹)を「スギモトさん」と呼んでいた。
 スギモトとは高校も学年もいっしょだったが、知り合うきっかけになったのはスギモトさんの方だった。俺が内向的で交友関係が広くなかったことは置いといて、同じ町内から同じ高校に通っていてもクラスが違えば接点はないものだ。帰宅部の俺とはテスト期間しかバスもいっしょにならない。

 椙本邸は変わった造りで、裏手に2階部分まで吹き抜けになった、天井から囲炉裏の名残のような物がぶら下がっているガレージがある。ガレージから入ると時折椙本父が迎えてくれた。

 春になりスギモトさんが同じ高校に入学してきてから、何故かスギモトとの距離の方が近づいた。
 椙本家にお邪魔したときにスギモトが着ていたバンドTシャツがきっかけで音楽の話になり、そこからCDや音楽雑誌の貸し借りが始まった。

 だがしかし、椙本姉妹は実在しない。今も昔も実家の近くに椙本邸なんてなかった。これらは全部、今朝見た夢だからだ。
 夢の中で実際の思い出のように椙本姉妹のことを懐かしみ、起きてから暫くは喪失感のようなものがあり茫然としてしまった。椙本姉妹のことを忘れたくないなと思ったが、もう二人の顔が思い出せない。初めから存在しなかったものを失ったという歯痒さ。

 修学旅行で俺がリュックを忘れてなくしかけた思い出も、財布を落としたスギモトがお金よりもいっしょに入れていたおばあちゃんからもらったお守りをなくしことに落胆していたことも、こっちが挨拶すると照れ臭そうに挨拶替わりに軽くうなずいていたスギモトさんの様子も、もう誰とも共有できない。
 陽射しの強い日に椙本邸の居間から見上げた庭木越しの空をはっきりと覚えている。

 作家の創作であるはずの物語が齎す説得力はこうしたところから生まれているのかもしれないなと、ふと思う。

 

頑張ってきたけどダメだった。


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 絶望の日々を乗り越えて生き残ったつもりでいた。バカだった。皆やさしいというか気を遣ってくれているのでそれに甘えて忘れていた。この歳で独身だと社会構造の底辺と見てくる人がけっこう居る。思っていても口に出さないだけでふとした瞬間に本音を投げつけてくる。
「独り身なんだから体を壊したって問題ないじゃない」
 そう言われた。そうだよな。そんな風に見られてるんだよな。居なくなっても誰も困らない。何の役にも立てていない。存在してもしていなくても変わらない。
別の人からは「若いうちは好きなことして、落ち着いてから結婚して子育てする人生もある」と言われた。自ら結婚しない選択をした訳ではない。それに好きなことって何だろうか。働き始めてから休みが取れなくて旅行に行ったことすらないのに。
 投げつけられたちょっとした言葉で過去のぐちゃぐちゃした記憶が溢れ出てくる。
 精一杯頑張っているつもりだった。頑張りの量なんて測れないから他の皆がもっともっと頑張っているだけなのかもしれない。自分なりに全身全霊を込めてやってきたのにこのざまだ。
 躓きの始まりはいつだろうか。大好きな憧れのミュージシャンに師事していたのに、生活のために稼がなければならず足が遠のいてしまった。これも言い訳か。やりようはいくらでもあったかもしれない。
 M3等のイベントやSNSで知り合ったミュージシャンは皆ちゃんとやっている。働きながら、子育てをしながら、家族を守りながら、家庭を維持しながら、すてきな音楽を生み出している。独り身である自分はいくらか有利なはずだが、全然上手くこなせてない。ギターを弾く時間と曲を作る時間を増やすため、読書を減らし、ラジオを聴くのをやめ、映画館に行く回数を減らし、ライブに足を運ぶのを控えた。音楽を優先することによって家事がままならなくなり、自炊が疎かになり、部屋の中は荒れるに荒れた。それなのに作品づくりのペースは落ちた。人生を上手く回すことができない。限界が近づいていると感じた。皆がやれているのだから自分もやれるはずだと思い違いをしていた。そもそも日常生活をまともに送れていなかったじゃないか。
 この前の春のM3をもって、即売会イベントに合わせて新譜を発表するのは最後にしようと決めていた。そう告知をしなかったのは、これで最後だと伝えたら寂しさが出てしまうだろうし、暫く経ってから思い返せばあれで最後だったのかと分かる方が自分に合っていると思えた。そういう訳で『Spring Rain Blue』はヌンチャクゴリラのラストアルバムでした。
 何とかアルバムを作り終え、当日は用意していた枚数が終了間際に完売するという、最後に相応しい結果だった。セルフライナーノーツが間に合わなかったことだけが心残りだ。
 M3開催直後、10年以上制作に使ってきたiMacが起動しなくなった。自分に付き合って、ぎりぎりのところで踏ん張ってくれていたのかなと思った。点かなくなった暗い画面を眺めながら、参加表明しているコンピやイベントの主催者にお詫びの連絡を入れないといけないなと思った。
 今後負わなければならない責任のことを考える。親のこと、実家の家のこと、大分先だがその後の自分自身のこと。埋もれそうな量の機材の中で音楽を作っている場合ではない。部屋を荒らしている場合ではない。これからのことをしっかりと見据えていかないといけない。と考えていたが、日常生活すらまともに送れない人間に何ができるというのだろうか。家族の中で自分だけが落ちこぼれだという事実は今後どうやっても引っ繰り返せない。
 生きている限りギターを弾くのも曲を作るのもやめられない。高い壁に囲まれて身動きができない気分だ。
 疲れたので少し寝る。

身勝手ライナーノーツ第2回 BiSH「プロミスザスター」

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 BiSH解散までに10回は書こうと思っていたのだが、残すところあと3日でまだ第2回という体たらくっぷり。東京ドームでの解散公演が近づくにつれて気持ちの行き場が分からなくなっている。

 「新生クソアイドル」として活動していたBiSHがメジャー・デビューを機に「クソ」を捨て「楽器を持たないパンクバンド」へと昇華した。「アイドル」という枠に囚われないという気持ちも込められていたと思う。メジャー・ファースト・アルバム収録の「オーケストラ」で奇を衒った路線ではなく真っ当な曲で勝負できることを示し、新たなファンを獲得するとともに人気を集めていった。しかし今回は「オーケストラ」についてではない。

 今回の主役はハシヤスメ・アツコだ。

 BiSHの魅力の一つは歌割りの妙だ。BiSHの楽曲は細かく歌割りされていて全員でユニゾンで唄うといったパートがほぼない。各メンバーが一人ずつ歌い、それをリレーのように繋いでいくのが持ち味になっている。主役の不在によるチームプレイの妙、BiSHの楽曲の殆どを手掛ける松隈ケンタによる功績だ。当然、自分のパートだけしっかり歌うという姿勢では上手くいかない。一つの歌になるように紡いでいくには、前の人から自分、そして次、という風に気持ちのバトンの受け渡しが重要になってくる。
 BiSHを深く知る前はアイナ・ジ・エンドが歌っている印象が強かったが、曲によってはアイナの歌割りがほぼなかったりすることに驚いた。メンバー6人全員が同じ歌唱力という訳ではないし歌い方にバラつきはあるが、それぞれの持ち味が最大限発揮できるように割り振られていることに感心する。

 「プロミスザスター」の最後のサビ、アイナからセントチヒロ・チッチと続き、もう一度最後のアイナにバトンを繋いでいるのがハシヤスメなのだ。その繋ぎ方が本当に絶妙で、自身の存在感を打ち出すとともに最後はエースのアイナに任せるという、そんな気持ちが込められているように聞こえる。
 主役の不在と前述したが、誰が何と言おうと「プロミスザスター」の主役はハシヤスメ・アツコなのだ。

 自分が選ぶベストライブテイクは2021年12月5日マリンメッセ福岡。ハシヤスメの凱旋公演だし、最後のアイナのロングトーンの響きも最高だ。

クリスマスにはクリスマス・アルバムを

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 何を季節外れのことをと突っ込まれそうだが、まさにそんな話だ。
 クリスマスにクリスマス・アルバムを発表する人は、夏にはその準備を始めている。旬に合わせて計画的に創作しようとすると結果的に時期外れに制作を進めることになる。親切に受け手側に寄り添っている行為だが、作っている当人には臨場感も何もあったものじゃない。中には前年の同時期に作っている人も居るのかもしれないが。
 今作のテーマは「春と雨」だ。それをスプリング・リバーブを介したエレクトリック・ギターのみで表現している。『Spring Rain Blue』というタイトルの「Spring」は、半分はスプリング・リバーブのことだ。「Blue」部分に特に意味はない。Blueは物憂げな気分を表すこともあれば晴れた空を指すこともある。雨に対する感情も人それぞれだし、雨模様だって様々だ。要は色々あるよね、ということ。あれ、ちゃんと意味はあった。
 このアルバムは2023年4月30日に行われる同人音楽即売会、M3に合わせて作っている。毎度のことだがいつもぎりぎりまで準備をしているので実際に春に録っているものを春に発表している。好運なことに収録期間に雨が降ることが多く、臨場感たっぷりに演奏できた。そしてM3当日も雨の予報、自分にとっては当たりだった。何故リリース当日の話がここでできるのかというと、このセルフライナーノーツが間に合わず、後日に書いているからだ。それだけに留まらず、録り終えたのが前日の未明、そのまま仕事に出て帰宅してからマスタリングを終え、アートワークを作り終えたのが当日の朝7時半、といういつにも増して間に合ってない状況だった。印刷し立てのほかほかの紙束を鞄に詰め、会場に到着してからジャケットを折り始めるという始末。表に押すはずだった落款を玄関に置き忘れるというおまけ付きだ。だからライナーノーツなし落款なしは初回限定盤ということになる。
 こんな制作裏のどたばたを書くつもりではなかったのだが、伝えたかったのは、春をテーマにした作品を実際に春に録りまだ春の内に頒布するという速度はM3のようなイベントならではということだ。鮮度って大事。昨年春のM3でリリースした『?』というアルバムに既にこの予告編が入れられていることから分かるように、今春になって慌てて準備した作品という訳ではない。春に作ったものを春に届けたかったからぎりぎりになってしまったというだけだ。

 

《この続きはCDに付属するライナーノーツでお楽しみいただけます》

身勝手ライナーノーツ第1回 BiSH「BUDOKANかもしくはTAMANEGI」

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 自分がどハマりしているBiSHの魅力をひとりでも多くの人に知って欲しいという思いがあるのだが、みんな自分が好きなものは自分で勝手に見つけるだろうし、誰かから薦められるのは取っ掛かりとしては弱いというのを経験から知っている。なので自分が感じていることの備忘録として書き残しておこうと思う。
 BiSHについては以前富士急ライブ前に書いたのだが、あれもこれも書こうとしてしまったために焦点がぼやけ無駄に長くなりまとまらなかったので、少しずつ記していこうと思う。

 ファンになってどっぷり浸かってみないと分からない魅力というのはある。内側からじっくり観察し続けないと見えて来ない風景。
 2021年大晦日、BiSHは念願だった紅白歌合戦への初出場を果たした。多くの人の目に触れ新規ファンを獲得するまたとない機会だった。ところが紅白を観た姉に感想を訊いたところ「酷かったよ」の一言で片付けられてしまった。知らない人に取ってはたった一度のパフォーマンスが評価の全てになってしまう危うさを感じるとともに、世の中のことは概ねそんなものだよなと落ち込んでしまった。紅白きっかけでファンになった人も見かけるので、魅力に気づく何かを感じさせることができたのは確かなはずだ。


 BiSH「BUDOKANかもしくはTAMANEGI」
 作詞:セントチヒロ・チッチ×松隈ケンタ×JxSxK


 セカンド・アルバム『FAKE METAL JACKET』の最後を飾る曲だ。BiSHの楽曲はメンバーによる作詞が多く、この曲もそのひとつだ。松隈氏、渡辺氏との連名なのでどの部分をチッチが書いているのか分からないが、目指す場所への熱い思いが感じられる。ロックバンドが目指す聖地としての日本武道館。到達点でありさらに上を目指す通過点でもある。

    「びしょ濡れのシャツが
     ぐしゃぐしゃなその笑顔が
     いつだか忘れかけてたコト
     ふと思い出させてくれたんだ」

 最初はこの部分を、頑張っている他のミュージシャンの姿を見て奮起すると解釈していたのだが、ある時ふと、ステージから見える我々清掃員のことを指しているのではないかと気づき熱くなった。最高にエモい。

    「もう何も恐れはしないよ
     逃げないでくれ
     そこに立つための資格を
     掴みたいんだ」

 BiSHは現在ラストツアー中で、6月29日東京ドームでのライブをもって解散することが決まっている。BiSHとしては武道館のステージに立つことはなかった訳だが、2018年の時点で動員を上回る横浜アリーナでのライブを成功させている。
 自分が選ぶベストライブテイクは2019年9月23日大阪城ホール。この日の1曲目で歌われた「BUDOKANかもしくはTAMANEGI」は、もがき続けた末に目指す場所へ辿り着けた多幸感と祝福に包まれている。

 余談だが、この曲の発表時に在籍していたハグ・ミィの歌割りを後任のアユニ・Dが全て引き継いでいる訳ではなく、一部アイナ・ジ・エンドが歌っている。その部分の歌詞がアイナにぴったりで絶妙だなと思ったりする。
 ハグ・ミィの歌声が放つ切なさがとても魅力的で、この時にBiSHを知っていたらハグ・ミィを推していたのではないかと思う。
 チッチとハシヤスメ・アツコの「一度だけ」の滑舌の悪さが似ていたりして微笑ましい。

 ラストツアー最終日の5月25日とラストライブ6月29日の間にサプライズで日本武道館公演が発表されたりはしないだろうかと少し期待してしまう。

 

All You Need Is a Jazzmaster

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 ジャズマスター、それは全ギタリストが一度は憧れるギターだ。

 何年かおきにジャズマスター欲が湧き上がっては、丁度いいのが見つからなくて断念したり、まだその時期ではないと引っ込めたり、そういうことを繰り返している。
 ジャズマスターフェンダー社の商標だが、テレキャスターストラトキャスターと同じくその設計は人類共通資産のようなものになってしまっているので各社からジャズマスター風モデルが出されている。しかしやはりフェンダーの物がいい。ヘッドに書かれている「JAZZMASTER」という文字が醸し出す雰囲気も好きだが、何よりヘッド形状が一番しっくりくる。スモールヘッドとラージヘッドの中間のジャズマスターヘッド。
 どういう理由か知らないが他社からもフェンダーの特許と思われるヘッド形状のモデルが販売されていることがある。去年うっかり各パーツまで黒で統一されたモモセ製MJMを買おうと思ったことがあった。黒のアノダイズド・ピックガードという点まで含めて自分の好みどんぴしゃだった。が、3本しか製作されていないということもあり、考えているうちに市場から消えてしまった。
 赤いボディに黒いピックガードのいかにも自分に向いている雰囲気のジャズマスターはピックアップがP-90で出音が好みではなかった。
 決算期に特価で売られていたフェンダー・ジャパンのINORANモデルを買いそうになったこともあった。
 そういった訳で、今までジャズマスターとは縁がなかった。

 Kino Factoryのvyskと出会い、メタルに集中していてジャズマスターのことなんてすっかり頭から抜けていた頃、目に止まったのがスクワイア製40周年記念モデルのジャズマスターだった。先ず指板に目を奪われた。少し経年で焼けたように塗装されたメイプルの杢目がヘッドから流れるように繫がっていてきれいで、もしやと思って確認したら貼りではなくワンピースネックだった。裏の杢目もいい。エレクトリック・ギターは見た目で選んでいい。ボディはシーフォーム・グリーン、ピックガードはゴールド、全然自分で選びそうな色ではなかったがそれもよかった。たまには流れに身を任せないと同じ様な見た目のギターばかりになってしまう。
 ペグ、ブリッジ、アーム、エンドピン、ネジに至るまでエイジド加工されたクロームパーツで統一され、つや消しの塗装と相俟って少し使い込まれた雰囲気を纏っていた。

 ギターを弾かない人からすると、何故ギター弾きが所有ギターを増やしてしまうのか理解できないかもしれない。それはDTMerが作る曲に合わせて音源を追加購入する行為と同様だ。音楽をやらない人に分かりやすく言うと、煮込み料理には寸胴、ソテーにはフライパン、オレンジピールには小振りな鍋、みたいな使い分けだと思っていただきたい。
 アンプやエフェクターで好きに出音を変えられるのがエレクトリック・ギターの利点だが、ギター本体をその時々の意図に合わせて持ち替えられるのも自由度が高くていい。自分の喉ひとつで勝負している歌い手さんや行く先々にある楽器を使うしかないピアニストには頭が下がるばかりだ。

 弾いてみると、トレモロユニットの構造のせいなのか大きめのザグリのせいなのか、セミアコのように響く。
 ブリッジからテールピースまでが長く、ミュートしないと共鳴弦のように鳴る。これがとてもいい効果になる場合がある。この共鳴が邪魔な時は右手でミュートすれば済む(ストラトキャスターでもトレモロスプリングが共振して似たような効果が得られるが、構造上不要な時にさっとミュートできない)。バズストップバーを追加したり弦落ち対策でブリッジを替えたりすると、このジャズマスターならではのおいしい部分がごっそり抜け落ちてしまう気がする。偶発的に出てしまうノイズを上手く利用するのがジャズマスターを使う醍醐味なのではないか。
 安めのギターを買うとまずピックアップを交換してしまいたくなるのだが、このままでいこうと思う。スクワイアの40周年に敬意を払って。

 

 春のM3で頒布する新譜制作のためにジャズマスターを手に入れたのだが、間に合わなかったり気が変わったりするかも知れないのでコンセプトはここでは明かさない。

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Squier by Fender 40th Anniversary Jazzmaster Vintage Edition Satin Seafoam Green

遠くに見える光

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 朝、目が覚めると自分の中は空っぽで、徐々にOSが読み込まれて「自分」が起動する。そしてこんな人生しか歩めて来なかったのかと絶望する。空っぽなままその日を過ごす方法はないものだろうか。
 自分の人生はずっと低空飛行だ。墜落しないだけましなのは分かっているが、それもいつまで続くか分からない。
 生きるのがどんどん下手になっていく。荒れていく部屋、溜まっていく一方の家事、読みたくて買ったはずなのに積まれていく本、聴けてない音源の数々、飾れていない複製原画やキャンバスアート。
 あんなに好きだったコーヒー、豆を挽くことすら面倒になってしまった。実家を出てからずっと続けていた自炊もここ何年かサボっている。
 なんかもう、何も上手くいきそうにない。

 先ほどPEDROの生配信があった。声出しが解禁されたフェスにBiSHが出演していたので、来ていたファンは大丈夫だったのか心配していた。常日頃「信じてもらえないかもしれないけどあなた方に支えられている」「助かってるし助かり合えているなら幸せです」と発言しているアユニさん、もがいても何者にもなれなかった自分のような人間の替わりに輝いていてくれている。その光が見えているうちはきっと大丈夫だ。