丘の上から投げられた花瓶
誇れるような大した仕事をしておらず、妻も子もなく、このままでは自分が居た痕跡を何一つ残すことなく、この世界から消え去ることになる。
一人で気楽だろうと思われているのかも知れないが、日々繰り返される周りからの重圧に押し潰されそうだ。
「結婚しないと一人前の大人とは言えない」「子を持たないと親の苦労は分からない」
そんな言葉にはうんざりだ。そう言われ続ける苦労をあんたらは知らないだろうが。
自分がここに居たという証、そんな手応えが欲しいのだろうか。何かを残しておきたいのだろうか。今ここに居る意味、存在価値。
風が強い夜に一人で歩いていると、このまま消えてしまっても誰も気づかないのではないかと思う。生きている意味を感じられない。居なくなってもきっと誰も困らない。
やるべきことはやり遂げたのだろうか。
振り返ってみても頭に浮かぶのは過去の後悔ばかりだ。
今やりたいことは何だろうか。
やりたいこととは違うが、いつも願っているのは世界平和だ。
世界が平和なら、大切な家族も友人も平和で安泰だろう。
しかし世の中は、そう上手くまわってはいない。
自己利益のために他人を騙したり蹴落としたりする人が居るからだ。そういう奴がほんの一握りしか居ないとしても、一滴の泥水がコップ一杯の飲み水を台無しにしてしまうように、この世界を汚している。
なのにみんな平気な顔をして日々を送っている。その鈍感さに堪えられない。
いやもしかしたら、そういう平気な顔をしている人が誰かを陥れたりしている張本人なのかも知れない。
それでも辺りを見渡すと、この世界は愛で溢れている事実に気づく。
誰かのおかげで今夜も街灯が点いているから迷わず帰って来れたし、把手をひねれば温かいお湯が出てくる。みんな自分にできることをこなして、お互いを支え合い世界はまわっている。
今は全速力で走っているところだ。丘の上から投げられた花瓶を受け止めるために。
間に合わないかも知れない。受け止められずに花瓶は割れてしまうかも知れない。
そうなったとしても、粉々になってしまった花瓶の欠片たちを拾い集めればいいだけのことだ。