唄うということ

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メロディのないギター・リフの寄せ集めのような曲ばかり作っている唄わないゴリラ。

自分が音楽をやっていることを知ると「唄ってるの?」と訊いてくる人が殆どだ。大半の人はインストゥルメンタルなんて聴かない。歌を唄っていれば音楽を聴いてもらう取っ掛かりにはなる。

だけど唄わない。

自分で唄えないという以前にメロディが書けない。オクターブの中には12音しかなくてその上がり下がりと時間軸の操作がメロディを構成するのだが、いいメロディとは何かを考え過ぎて訳が分からなくなってしまった。下方倍音列を持ち出していわゆる和声から解き放たれて自由を手にしてももう手遅れだ。

歌詞を書くこともできない。ブログには駄文をいくらでも書くことができるのに、短い文に思ったことをぎゅっと詰め込めない。上手く言葉に変えて消化できない気持ちを音楽という形に落とし込んでいるので言葉で伝えたいことがまずないのだ。

歌はたくさん聴く。今まで何回も聴いてきた曲なのにふとある瞬間に歌詞の内容が深く刺さってやられることもある。

 

永遠よりつづく眠りより深く

命の重さで根を張る

9mm Parabellum Bullet「Scenes」(作詞:菅原卓郎)

 

こういう歌詞が書けないのだったら自分で歌を唄う意味なんてないと思った。

歌詞は歌い手が魂をメロディに乗せるための道具だということをいつも感じていて、だから日本のメロコア・バンドがネイティブでも聞き取れないどうしようもない発音と意味も伝わらない稚拙な英語で唄っているのを見ると悲しくなってくる。どんなに曲がよくても台無しだ。反吐が出そうさ消えてなくなれよ(w-m「自縛」の歌詞です)。

何度目か分からない遠野朝海さんとやった「Shade」の話になる。

実は自分の手違いで遠野さんには一度唄ってもらったあと、歌詞を書き足して追加で唄い足してもらった。

作ったときに書いた譜面があまりにも汚くて書き直したものを遠野さんに送ったのだが、音源も送ってあるし分かるだろうという思い込みで繰り返しの指示を書かずに送ってしまったのだ。最初に遠野さんから歌唱音源が届いたときは一度目のサビまでしかなかった。事情を説明して書き足してもらった二番の歌詞に自分がこの曲を作っているときに漠然と思っていたことがそのまま書かれていて驚いた。その歌詞を引き出したのは自分のメロディなんだということがうれしかったし自信にもなった。

歌詞を書き足すことなく初めから全体を書いていたらどうなっていたのかと思う。同じ結果になっていただろうか。偶然性が手助けをしてくれたのかも知れない。

遠野さんはさらっと書いたと言ってたけど全体に渡ってとてもいい。「愛おしさの塊を見てた」ってすごい。自分では決して辿り着けない歌詞だなと思った。

この曲、歌詞はもちろんだけど、遠野さんの歌唱に依る部分がとても大きい。Aメロの間のアドリブのハミングを聴いたときにもう全身の何かが音を立てて崩れた。

そして今日もこの曲に救われてる。

Asami Tono, Shuichi Kojima - "Shade"

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