多様性として許容されるのか

 自分が好きな映像作品について書いていたら横道に逸れて本筋に戻れそうになくなったので、そのことをここに独立した記事として書いておく。

 「お前らは無駄飯食ってるガキなんだから」

 小学校の先生に言われた言葉が今も響く。何かやらかしての説教だったはずだが、何をやらかしたのかは全く覚えていない。なのに言われたことははっきりと覚えている。
 その頃は考えてもみなかったが、この先何も残すことなく生きていく自分は今も無駄飯食らいなのではないかと考えてしまう。社会の構成要素ではあるはずだが欠けても誰も困らない。誰かの役に立っているという実感がない。
 ヒトは多様性を獲得することで種として存続してきた。極端な譬えだが、同じ食べ物の食中毒で集団が全滅というような事態を回避するために、個体ごとに嗜好が違い好き嫌いがある。全体で見れば不必要な個人は居ないという考え方だ。余裕というか遊びというか、そういう幅が齎す効用。役に立っているのか立っていないのか、集団にとって必要な要素なのかそうでないのかは、神の視点をもたない個人では判断できないのかもしれない。
 こんなことがぐるぐると頭の中を巡るのは疲れているからだろうか。
 ギターを弾くという行為も、楽器屋の売り上げには繫がっているし経済を回しているという観点では役に立っている。まあギターは誰も聴いてなくても世界の役に立っていなくても弾き続けるのだが。
 逸れた横道からさらに逸れて、結局書こうと考えていたことと違うことを書いていた。
 フリック入力と違いキーボードを打鍵していると自動手記みたいになってしまう。
 それにしてもポメラ、お前が大学生の頃に居たら課題や論文がとても楽にこなせたのにな。