人との関わり

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 人と関わるのが恐い。

 SNSで知り合った音楽をやっている方はみんなやさしい。そういう環境に甘えて、自分も人並みにやっていけるのではないかと錯覚する。自分が化け物だということを忘れ、うっかり山を下りて人里に近づいてしまう。化け物と人とは相容れない。笑われ、恐がられ、石を投げられ、山に逃げ帰る。
 みんなが自分を笑っている。みんなが自分をバカにしている。そういう考えが頭の中を埋め尽くし外に出られなくなる。穴蔵に籠もる。地下室万歳。
 昔から人の輪の中に入るのが苦手だった。上手く打ち解けられなかった経験の積み重ねから不必要にびくびくしてしまい、ますます輪に入れなくなるという悪循環。それが余りに酷くて親が学校に呼び出されたとき、正直なことが言えなかった。家族の輪の中にも入れていなかったのかもしれない。

「いじめられる側にも問題がある」というような言い方をされ済まされたこともあるが、自分はその属性を纏っているように感じる。
 歩道に屯している中学生の集団の横を通っただけで「キモい」と言われたり、同じような状況で邪魔だなと思い通りすがりにチラッと見たら「見てんじゃねぇよ」と詰め寄られたり、そういうことは日常茶飯事だ。
 夢中になって桜の写真を撮った数日後、回ってきた自治会の回覧に「児童にカメラを向けていた怪しい男性」という事案として載っていたことがあった。発生日時からして間違いなく自分だったのだが、その場で注意してくれればカメラのデータを見てもらって濡れ衣を着せられることもなかっただろう。小学校の近くだということを忘れて写真を撮っていた自分に落ち度があったのかもしれないが。
 スタッフの制服を着て店舗内で作業をしていたときに、怪しい男が居るとお客さんに通報されて警察が来たこともあった。今にも犯罪を犯しそうに見えたのだそうだ。
 ここで挙げている例は経験した中でも軽いものだ。一体自分はまわりからどう見えているのだろうか。
 人より頭の回転が遅いのも災いしているのかもしれない。話をされていても理解に時間が掛かってしまい黙っている間に思ってもない方向に話が進んでしまう。そして一度受けた誤解を後から訂正するのはとても難しい。
 そのうち何もしていないのに何らかの容疑者として逮捕される日も来そうだ。

 人と関わるのをやめれば問題は起きない。人付き合いをせず、人が居るところには近づかない。自分の殻に閉じ籠もっていれば問題も誤解も諍いも生まれない。そういう風にひっそりと生きてきた。
 しかし情けない話だが、自分一人では何も為せないような人間なので、人との関わりに頼っている部分が大きい。
 ネットに公開していた曲を見つけて誘ってくれたメキシコのインディレーベルがなければヌンチャクゴリラとして活動を始めることはなかっただろう。
 KORG M01Dの購入を迷っていたときに背中を押してくれたmistymindsさんのおかげでM3を知り、DS-10コンピへの参加、さらにsbharuharuさんのリミックス・アルバム制作へと広がっていった。
 中村椋さんが誘ってくれたアレンジ祭でDTMerとの繫がりが増えた。
 今年一番の演奏は遠野朝海さんの即興に合わせて弾いたソロだったりする。
 自分の活動や作品が否定されたときは、いただいた感想やコメントやいいねに救われている。
 結局人と関わっていくしかないのだなと思いつつも、みんな社交辞令的にやさしく接してくれているだけなのではないだろうかと考え始めてしまいどんどん落ちていく。思い過ごしだということは分かっているはずなのだが、笑われているような気もバカにされているような気もまだしている。関わってくれているみなさんのせいではないのだが。

 先日、横浜に来ていたムラタユスラさんとライブ後にサシ飲みをしたのだが、普段音楽の話をできる人が身近に居ないこともあり、とても楽しかった。
 こういうこともあるのだから、人と関わることを恐れないでやっていきたい。