菊地成孔について その2

大友良英ニュー・ジャズ・クインテット

話は少し前後する。

2000年2月13日、新宿ピットイン、大友良英ニュー・ジャズ・クインテット
初めて菊地成孔の演奏を生で聴いた夜。

本当は12月のデートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデンのライヴに参戦するつもりだったのだが、
まだ俺は外に出られるような状態じゃなかった。

さて、二度目のジャズ・クラブ、初めて聴くバンド。
菊地による『大友良英ニュー・ジャズ・クインテット欧州デビューツアー日記』は読んでいたから、どういう音楽なのか想像ばかりが暴走していた。

そこにあったのは菊地の文章から喚起された通りの音楽だった。
後に先生(俺が「先生」と呼ぶ理由は前述しているが、ここで「先生」と書いていいのか「菊地」と書くべきなのか、もはや見失っている)にそのことを話すと「俺の描出力はリアリズムだからな」と言って笑っていた。

当時の大友良英ニュー・ジャズ・クインテットには全員が物凄い勢いでどこかへ向かっているような求心力があった。バンド名に「ジャズ」という言葉を用いているものの、これはジャズという範疇で語れる音楽ではないなと思った。そもそも俺はジャズが何なのか昔も今も分からないのだけれど。
大友良英の電子音とアルトとテナーの2管の共鳴。
自分が過去に幻聴していた音の具現化といった印象。
頭の中で想像していたことが現実に漏れ出している感覚。
実際に俺には、ない筈のトランペットの音が幻聴のように聞こえていた。と思ったら、ドラムの芳垣安洋が本当にトランペットを吹いていたという事実も手伝っての夢うつつ感。
ここぞというタイミングで出される菊地のフリーク・トーン。「フリー・ジャズのフリーク・トーンには癒しの効用がある」と言っていたのは誰だっただろうか、正にその通りで、俺はあのブキョーッ!という音を聴くと笑い出してしまうくらい楽しくなる。

PAの出音と生音が混ざって聞こえるくらいの狭いクラブで鳴らされるには、勿体ないようなそれでいて丁度いいような音楽だった。

 


初出:FC2『思考の頭陀袋』2010.11.18

菊地成孔について その1

日々忘却していく一方なので、自分にとって重要なことは残しておくことにする。
少しずつここに書いて。

さて、菊地成孔について、だ。
俺が菊地成孔の生徒だった頃の話。もう十年ほど前の事になる。

当時俺は菊地成孔を「菊地先生」と呼んでいた。
下らない俺の人生の中で、
俺にとって本当の意味で「先生」というのは彼一人しかいないので、
俺が「先生」と言うときは全て菊地成孔のことだ。昔も今も。

「師匠」ではなく「先生」なのには理由がある。
当時、菊地成孔はサックスと音楽理論の私塾を運営していた。
ペンギン音楽大学の前身となっていたそれは、「菊地スクール」という通称で呼ばれていた。
俺はその菊地スクールの生徒だった。
自らの意思で誰か特定の人の生徒となったのは後にも先にもこの時だけで、
だから俺にとっての先生は菊地成孔だけなのである。
レッスン毎の授業料によって発生する先生と生徒という関係。
今となっては信じられないことだが、当時は全てのレッスンが先生と一対一で行われていた。
ティポグラフィカグラウンド・ゼロは解散していたが、
自身のバンド、デートコース・ペンタゴン・ロイヤルガーデンを旗揚げし、
東京ザヴィヌルバッハ(信じられないことに新宿ピットインで客四〜五人ということがあった)の活動が本格化、
岩澤瞳との第二期スパンク・ハッピーを準備していた時期、
ジャズ・テナーサックス奏者としては、
早坂紗知のサックス・カルテットから脱退し、加納美佐子のグループから離れ、
大友良英ニュー・ジャズ・クインテットのヨーロッパ・ツアーが成功し、
自身の菊地成孔カルテット(後にクインテットとなる。余談になるが、このアコースティック・クインテットが好きで、個人的に「菊地成孔ロスト・クインテット」と呼んでいる。)を始動した頃だ。
さらに、膨大なスタジオ・ワークを日々こなしていた筈だ。
レッスンは東急東横線都立大学駅近くのリンキィディンクというスタジオで行われていた。

最初のレッスンの日、都立大学駅に着き先生のケータイにかけると、何やら作業中のようだった。
おそらく第二期スパンク・ハッピーのトラックを作っていたと思われる。

 

初出:FC2『思考の頭陀袋』2010.11.15

「はてな」始めました。

「FC2」「Tumblr」を経て「はてな」に辿り着いた。

Tumblrは気軽に使えていいし継続するのだが、普通のブログのようなことを書いていても埋もれて行ってしまうのでここに。

FC2、Tumblrに掲載済みの記事も取って置いたり整理したりする目的でここに転載するつもり。

よろしくお願いします。