ゴリラの休日

あるいは『仕事がなくて何の予定も入っていない一人で気ままにに過ごす一日』


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夜明け前に目が覚める。

時計を見るとまだ5時前だ。

ぐっすり眠れない。

寝床でうだうだしているとあっという間に時間が過ぎていくのでとりあえず起きる。ほら、いつの間にか7時を過ぎている。

 

「自分がここに存在している意味なんてあるのだろうか。」

毎朝、起きる度にそう考えてしまう。妻も子も飼い犬も居ない。自分が居なくなっても誰も困らない。誰からも必要とされていない。つまりは生きている意味も価値もない。

それでも「悔しいから生きてやるか」と思う。自分の人生に意味も価値もないということは、何をしてもどこへ行ってもかまわないはずなのに、実際は今居る環境と労働に囚われてただ日々をやり過ごすしかない。

生きづらさや虚無感に悩むことなんて大人になったらなくなると思い込んでいた。十代の頃に抱え始めた悩みはきっと死ぬまで続く。

学校帰りにお互い制服のままデート、みたいなことをやっておきたかったな、とふと思う。充実した高校生活を送ってみたかった。青春ってやつ。ちょっとしたやり残したことがチラチラとフラッシュバックする。

 

ストレッチをしてから朝練。

誰からも必要とされない自分のギターだが、いざという時のために常に研ぎすませておくことを忘れない。おそらくいざという時は来ない。

仕事で傷めている右腕が思うように動いてくれない。左手の小指は高校の時に野球で亜脱臼して以来上手く動かせない。でもそんなのは言い訳で、元々才能がないだけかも知れない。

 

煙草は吸わない。

コーヒーは飲む。

本を読むのが好きなのに、なぜだか集中できない。一人暮らしで気が散る要因はないはずのに。 

散歩がてら近くのカフェまで行くことにする。片道3キロ。読書をしたり日々の記録をノートに綴ったりするのにカフェだと集中できるのはどうしてだろうか。

文庫本、厚めの四六判、ノート、筆記具、メモ帳、水筒、iPod、ちょっとカフェに行くのになんて荷物だろうと思う。手ぶらで歩いている人をよく見かけるけど、きっとスマホひとつで全てを賄える現代人なのだろう。スマホで洟をかんだり汗を拭ったり喉を潤したりできるのだろう。

カフェに着くと平日なのに結構な混雑具合で諦める。カフェミスト飲みたかった。2杯で文庫本1冊分だと考えると飲めなくてよかったよと納得して帰る。

 

家事が溜まっている。

午前中に全部片付けてから色々やれよ、と思うがいつも後回しにしてしまう。

 

夜を歩く。

歩くのは考えごとをするのにいい。何かを思いついたりいい方向にまとまったりする。

一晩で15キロほど歩くこともある。

頭の中のもう一人の自分の声がうるさくて仕方がない時がある。「分かっているから放っといてくれ」と声を荒げたくなるようなことを言い続けてくる。叫びたくなる。

叫ぶ替わりに音楽を聴く。

大好きな音楽をそんな風に使いたくないのだが、音楽を聴くともう一人の自分の声は聞こえなくなる。落ち着く。

 

「私は音楽が身近にあるだけで、少し心穏やかに過ごせる気がします。」

 

随分前に言われたことが脳内で再生される。

聴いている音楽が違っても、音楽との向き合い方や感じ方に共感を覚えたことを思い出す。

あの子は元気にやっているだろうか。