一度切り

小さい頃、実家近くの竹藪に入った時のことだ。夕焼けが始まる少し前だったと思う。落ちて一面を覆っている枯れた笹が白く光っていてとてもきれいだった。射し込んでいる陽の具合なのか地面からの反射もあるのか竹藪全体がきらきらしていてとてもきれいで見上げると光の雨が降っているようだった。少しの間見とれていた。鬼ごっこの途中だったことを思い出し、そこから離れてしまった。

何日か経ってから同じ時間に同じ場所に行ってみた。あの時見とれたきれいな光景はもうそこにはなかった。その後何回も訪れてみたけど結果は同じだった。

今でもあの竹藪のことを時々思い出す。一度しか見れなかったあの光景はいったい何だったのか。

でもまあ、このことに限らず全て一度切りなんだよな。一日として同じ日は来ないし、きれいな朝焼けも心洗われる夕焼けも全く同じものは二度と見れない。一度切りだったからこそ心に深く刻まれているということだってある。

その瞬間を全力で受け止めればいいだけだ。後悔のないように。などと言いつつ、今日も踏み切れなくて反省していることがある。

勝手な仲間意識

ツイッターのTLを見る時間が日に日に減り、ブログの更新頻度がかつてないほどに上がっている。結局何か言いたいだけなのかと思うけど、ツイートとブログで書くことは全く違う方角を向いている。

こんな曲作ったとか、誰かの曲の感想とか、こういう音楽を聴いてるとか、こういう風に考えて創作してるとか、そういうのを見るのは好きだ。

みんながわいわいやっている中に入っていけない。面白い話も提供できない。つまり現実世界の自分と何も変わらない。誰からも必要とされてないギターを弾き誰も聴かない曲を作ってひっそりと生きている。ツイッターで繋がってる人は自分と同じような人が多い気がして勝手に仲間意識を持っていたりするが、他のみんなは自分と違ってもっとしっかりやっているので気後れしてしまう。羨ましいのか妬ましいのか。

こっそり「いいね」するだけじゃなくて、ちゃんと感想を伝えるようになりたい。

 

 

それは突然降ってくる

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散歩は音楽をゆっくり聴く時間であり考えごとが捗る時間でもある。自問自答していると考え過ぎてしまうこともある。昨夜は自分の至らなさに絶望して落ち込みながら川沿いを歩いていた。

突然頭上から光の粒がひとつ現れた。それは目の前を横切り川面の方へ落ちていってすっと消えた。一瞬星が降って来たのかと思った。ホタルだった。

初めて目にするホタル。見たことはないのにホタルにまつわる苦い思い出があって、一生見に行くことはないと思っていた。何の前触れもなく、こうして突然目の前に現れたりするんだな。住んでいる部屋から徒歩5分のこんな場所で。

川面に視線を下ろすと4〜5匹のホタルが明滅しながら飛び交っていた。数は少ないけどきれいだった。その光景に救われる思いだった。

人生の転機になるようなことはこうして突然やってくるのかもしれない。準備ができていないとき、期待していないときに限って。それは突然強烈な一撃を食らわせにやってくる。

こぼれおちるもの

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帰宅後の行動を制限するほどの頭痛が2日ほど続いていたのだが、午前1時にすこーんとなくなり絶好調になる。寝てないといけない時間に元気になってもね。何かしないともったいないと焦る気持ちを抑えつつ眠りにつく。

夢の中である人に世界の秘密を教えてもらう。首がもげるほど納得して目が覚めるとその手触りだけを残して何もかも忘れている。おかげで沼の底を這いずり回ってるような気持ちから抜け出す方法が分かったよ、ありがとう、と思った瞬間にお礼を言うべき相手が分からなくなっていた。まあ夢なんてそんなものか。

ここのところずっと、こっそりベスト盤の選曲をしている。そもそも自分の音楽活動にベストな時期なんてあったのかと自問しつつ。

深夜の2時間DTMでやった曲をいくつか入れることにした。手応えを感じたものの後日じっくり取り組み直しても何かが違う、あの2時間でしか作れなかったもの、そういう曲があった。確かにこの手の中にあったのに再び手に取ろうとするとこぼれおちるもの。昨夜の夢のようだと思った。

 

結局ギターを弾いている

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いつもギターを弾いている。このへっぽこな腕前からしたらギター歴を曝すのは恥ずかしいが人生の3分の2ほどギターを弾いてきた。

演奏技術の上達が著しく遅いのに何故ギターという楽器に拘り弾き続けているのか自分でもよく分からない。作曲に専念するために遠ざかっていた時期はあるけど、結局ギターを手にしている。

今までギターに費やしてきた時間を作曲や理論の勉強に充てていればもっと音楽的に成長できていたのではないかと考えたりもする。

機材に関してもギターに注ぎ込みすぎている。オーケストラ曲を作るのを目標としていた時期もあった。今なら音源を買い揃えれば個人でもDTMでそれなりの作品が作れる。なのに一向に音源を買わず、今年もリバーブを新調してしまった。いったい何台目のリバーブだろう。管弦楽法の勉強もしなくなった。増えていくのは音楽理論の知識ではなくエフェクターという魔法の小箱ばかり。

昔書いたいくつかの弦楽四重奏にしても木管五重奏にしても、今聴き返すととても拙い。当時はとてもいい曲が書けたと思い込んでいたが、使用音源の貧弱さを差し引いてもいい出来とは思えない。そういうことに向いていないのだろう。そして無意識下でそう自覚していたからギターを弾いてきたのかもしれない。大して上手くはない唯一の特技。

去年深夜の2時間DTMに参加し始めてからも果たしてこれをDTMと呼んでいいのかと思っていた。打ち込んだドラムにベースを弾いたりギターを何本か重ねたりしただけのもの。作曲15分、録音に1時間というバランスの悪さ。ルーパーを導入してからはドラム・パターンもルーパー任せ、ベースもギターもルーパーで重ねてもはやデスクトップというよりオンザフロア。

この体たらくで無謀にも冬休みアレンジ祭に参加。回ってきたボカロ曲をギター16本のみのギター・オーケストレーションにアレンジして全くDTMとは呼べないものになった。いい反応もあったし手応えもあった。これが自分の持ち味だし個性と言えなくもない。得意なことに逃げているだけかもしれないけど。

ギターだけでやると割り切って他のことを捨てたら何だか楽になった。その結果、M3-2020春の新譜は全編ひとりギター・カルテットによる作品になった。

今日も相変わらずギターを弾いている。

車はエンストするけどJAFは信用してない

あるいは歌と歌詞の話。

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タイトルは好きなバンドの歌詞の聞き間違いでJAFに対しては何の恨みもない。

音楽作品を聴くとき、曲のタイトルや歌詞を見るのはある程度聴き込んで音が体に染み込んでからにしている。先入観を持たずに作品に触れたいからだ。

まっさらな気持ちで歌を聴くのは難しい。英語や日本語、意味が分かる言語で唄われているとどうしても歌詞の意味が頭に入ってきてしまう。純粋に発せられている音として唄声を楽しみたいときもある。

スペイン語のラップやフランス語のハードコアを聴くのはそういう理由からかもしれない。意味が分からずこれは怒ってるのかなこっちは楽しんでそうだなと勝手に想像しているが全く違うことを唄っているのかもしれない。

しかし歌と歌詞は切り離せないものだ。感情を込めて唄うために言葉をメロディに乗せる。そうして唄われた歌は言葉が通じない人にも気持ちが伝わりそうだ。

 

聞き間違えていた歌詞はthe HIATUSの「Shimmer」という曲。

 

Now my cars is always stalling out

And I don't believe in chance

"Shimmer" by the HIATUS (Lyrics by Takeshi Hosomi)

 

chanceがJAFに聞こえてた。多分車がエンストという箇所に引っ張られてしまった。

あとはAnd I paint a coat in blackのcoat inがcurtainに聞こえてた。まあ英語の歌詞は意味や物語より韻に重きを置いていたりするので問題ないか。

この「Shimmer」という曲が大好きだ。それまでは「Insomnia」での不眠症の悲痛なSave meという叫びに共感していたのだが(今もしてるか)、I'm waking up this timeと繰り返し唄われる「Shimmer」は希望に溢れていて「Insomnia」の彼は救われたんだなと勝手に思って泣いた。

「Shimmer」は発売から3年かけてライブの最後で演奏される曲にまで成長した。うれしかった。Keeper Of The Flame Tour最終日、新木場Studio Coastで武道館ライブを発表した時のアンコールが「Shimmer」だった。あの場に居合わせたこと、本当に宝だ。終演後めでたい気分で飲めない酒を飲み、最寄り駅に着く頃にはふらふらで、這いつくばってホームのベンチまで辿り着き少し休んでから帰宅した苦い思い出。

武道館で「Shimmer」が奏でられることはなかった。

適材適所

すてきな曲だから多くの人に聴いてもらうためにもそうした方がいい、という知人のアドバイスもあって、コラボした曲を動画投稿サイトにアップした。動画と言ってもただのスライドショー、書いていただいた歌詞に合わせる訳でもなく、撮り溜めてあった散歩写真を朝陽が昇ってから月が出るまで時間軸順に並べ直しただけのものなのでMVというにはおこがましい。

投稿してみたものの、何日か経って再生回数2回、スパムコメントが1件というだけだったので削除してしまった。

動画投稿サイトは自分の居場所ではないのだなと改めて思った。ニコニコ動画に曲をアップしていた頃を思い出す。

フォロワー数や再生回数から見ると自分にはSoundCloudが最適だったのだが、その状況も変わってしまった。柏倉隆史氏にフォローされた頃、2〜3年前が活動の場としてのSoundCloudのピークだったのだなと思う。考えてみると大好きなバンドのメンバーからフォローされているのはすごいことだ。

それにしてもネット上には優れた音楽家が溢れていて自分の至らなさを痛感するばかり、落ち込んで手が止まってしまう。しかし自分如きが手を止めていたらどんどん距離が離されるのでやるしかない。って何の距離だろう?

思えば目指している場所があった。今も変わらずあるのだけど、生きているうちにそこまで辿り着けるのかどうかかなり怪しい。しかし引き返すのが困難なほどには歩んで来てしまった。目指す場所も戻る場所も遥か彼方だ。今立っているここが世界の果てだったのか。

自分のような社会の底辺に居る人間でも音楽を続けていられるのは、文明・文化のおかげに他ならない。誰でも芸術や娯楽を享受できる社会を築き上げてきた先人たちには感謝しかない。自分の年収は同期の友人が支払っている所得税より低いのに、好きな楽器を手にできているというのはとても幸せなことだ。

タイトルからしてこんなことを書くつもりじゃなかった筈だけど、何を言おうと思い書き始めたのか忘れてしまった。考え込んでいる間に明日の弁当の炒めものが焦げた。