価値基準は人それぞれ

 だいぶ開いてしまったが前回の補足。

 何故急に小学生の頃の片想いの話を書いたのか、それにはきっかけがあった。
 人の価値基準は場当たり的なもので、傍から見ると何気ないようなことでも当人にとってはいい思い出として刻まれることがある。その後幸せに暮らしていても、あの時はよかったなと思い出し続けるようなもの。三秋縋『恋する寄生虫』のあとがきにそのようなことが書いてあった。
 まさに初恋がこれなのかもしれない。自分にとってはいい思い出だが、向こうにしてみれば、かわいそうなクラスメイトにいつも通りただやさしくしただけ(他のクラスメイトにもそうするように)、自分に好意を寄せている男子を少しからかってみただけ、取るに足らない出来事だったと思う。
 もしかしたら自分は思い出だけで生きていける類いの人間なのかも知れない。ただの片想いだったのに、初恋のことを思い出している数日間、あの頃を追体験しているようで幸せな気分に浸っていられた。どうしようもない現実から目を背けているだけなのかも知れないが、手に取って浸れるような思い出があったことに驚いた。すぐにその浮遊感は覚めてしまったけど。
 自分には青春コンプレックスがある。中学、高校、大学と碌な学生生活を送っていない。そのことを未だに引き摺っている。束の間の輝かしい瞬間もあるにはあったが、反動が大き過ぎて覗き込めない。
 小説でも映画でも、高校や大学を舞台に何かやっているというだけで何とも言えない気持ちになる。またそれらの作品にのめり込み謳歌できなかった青春時代を取り戻そうとしている自分も居る。羨ましさと悔しさがぐちゃぐちゃに混ざり、感情の嵐が巻き起こるが何が原因なのかはっきり分からない。十代の頃に悩み切って捨てておくべきだったこと。どんなに考え込んでも過去は何も変わらない。過去に引っ張られている現在も。
 学校に行く前にギターを弾き、帰ってから寝るまでギターを弾く。当時はそれでいいと思っていたが、青春を拗らせると一生引き摺るということを知らなかった。
 高校は男子校(非モテ属性の獲得)、大学は極端に女子の比率が低い学部(非モテ属性の永続化)、仕事関係で出会いがあるような職種でもなく、周りの知人は結婚し尽くし、絶望的な環境の中で日々をやり過ごしている。もてなくて青春汁がどうのこうのと言っていた某作家でさえ結婚して子育てをしているというのに。
 独りで居るのが苦という訳ではない。だから何に絶望しているのかその正体が分からない。種を存続せんとする生物としての本能だろうか。何も為さず何も残さずに死んでいく虚しさみたいなものだろうか。まだ結婚してないのかという周りからの圧力は確実に自分の自尊心を圧迫している。
 先日、大量の未開封DVDとサーバー機に囲まれ孤独死していた40代男性の記事を見たのだが、心ないコメントの数々に憤慨した。この人の人生はなんだったんだとか、結婚していればこうはならなかったとか、真面目に生きていたらそんな最期にはならないとか、好き勝手に言われていた。勝手に惨めだったと見下されても、その人の人生がどうだったのかなんて本人にしか分からないはずだ。自身の価値観でしか他人や物事を見れない人の意見なんて燃やす価値もないゴミだ。穴を掘って埋める手間も惜しい。
 ヒトは多様性を許容することで繁栄してきたはずなのだが、同調圧力と効率化の波のせいで世界が狭められ、どんどん生きづらくなっている。

 現実逃避からくる夢想癖のことを書くはずだったのだが、思わぬところに着地してしまった。

参考文献
三秋縋『恋する寄生虫メディアワークス文庫