輝くために燃やしているものは眩しさで見えない。

 ここのところ恒常的な残業で時間と体力を削られ続け、創作が滞っている。
 ここ3年はM3の開催に合わせて半年ごとに1~2枚アルバムを作るということを続けてきたのだが、今回ばかりは無理じゃないかという気がしている。
 表現したいことが自分の中に堆積していきパンパンに詰まってしまい、固まって何も作れなくなるような気がして怖い。みんなやっているからという理由で自分もできる気になって続けてはきたが、私生活が復旧できないほど荒れている。
 これは自分のことを言っているのではないが、働きながら、家庭を守りながら、子育てをしながら、創作を続けている人は本当にえらい。

 自分にとって創作とは何なのだろうか、というのはちゃんと分かっている。自分の魂が腐らないために何が何でも続けていかなくてはならない。きっと聴く人が居なくても、この世に自分一人でも、続けていくことなのだと思う。みんなもそうであって欲しい。そのために払っている代償、魂を保つために削っているものは他の人からは見えない。犠牲になっているものは計り知れない。

 別にそんな大袈裟なことを言いたい訳ではない。

 実家にはマトリョーシカがあった。もしかしたら今もあるのかも知れない。
 まだ幼稚園児だった頃、マトリョーシカの最後のひとつを取り出し、代わりにピーナッツを入れたことがある。誰も開けたりはしないので、何か月もずっと気づかれないままだった。時折マトリョーシカの中のピーナッツとレゴブロックの中に隠した一番小さいマトリョーシカをこっそり確認しては、うれしさと不安が混ざったような気分に浸っていた。
 これが何かを創作するということなのではないだろうか。誰に気づかれずともそうしなくてはいられない衝動。日の目を見ないまま終わったとしても、そっと胸にしまってそれとともに歩み続けることが創作をし続けるということなのではないだろうか。
 そして、気づいて欲しくて「マトリョーシカを開けてみて」と声に出せる人は宣伝上手な人。